【レポート】第56回 社会事業家100人インタビュー:(特)秋田県南NPOセンター 理事 菅原賢一氏

社会事業家100人インタビュー第56回
先輩社会事業家のビジネスモデルを学ぶ

2018年4月10日(火)18:30~20:30 於:日本財団2F会議室

(特)秋田県南NPOセンター 理事 菅原賢一さん

菅原様

 
プロフィール:
技術士(総合技術監理部門)、技術士(建設部門)
1947年 秋田県横手市生まれ。国土交通省に37年間勤務し、退職後、秋田県南NPOセンター設立に関与。2004年~2009年 秋田県南NPOセンター理事、2010年~2014年 秋田県南NPOセンター理事長、2014年~現在 秋田県南NPOセンター理事
 
<今回のインタビューのポイント>(川北)
高齢化と人口減少が同時に進行し、課題が深刻化する地域において、自治会・町内会やその連合会の役割は、子どもや子育て世帯のための行事(イベント)ではなく、高齢者のくらしを支える事業(サービス)へのシフトが不可避だ。特に豪雪地では、家屋や道に積もった雪を動かせなければ、通院・通所や買い物など、生活の基礎を脅かす深刻な問題となりかねず、その担い手として、地域組織を再編・新設する地域も増えつつある。その先駆者として、日本有数の豪雪地である秋田県南部の横手市内を皮切りに、雪とともにくらし続けるための「共助組織」づくりと、地域を超えた連携を進めている(特)秋田県南NPOセンターのお取り組みから学んでいただきたい。
 
NPOセンターが共助社会づくり?
(特)秋田県南NPOセンターは、秋田県南部(仙北市・大仙市・美郷町・横手市・湯沢市・羽後町・東成瀬村)を主な活動地域とする中間支援組織です。年間事業費は約5,000万円で、男女共同参画部門(南部男女共同参画センター指定管理)、市民活動部門(市民活動サポートセンター受託)、協働推進部門(NPO派遣相談員事業)、サポートステーション部門(若者就労支援事業)、共助社会づくり部門(共助組織設立・運営支援、地域・自治会支援)の5部門で構成されています。
私は共助社会づくり部門の担当理事です。NPO等の団体支援だけでは、深刻度を増す地域の課題解決に限界を感じ、もっと地域に入り込んで、支援先のすそ野を広げないとという思いから、当センターが提案者となり、内閣府の「新しい公共支援事業」による「高齢過疎地域における共助力アップ支援事業<横手モデル>」(注)として実施したのが始まりです。4つのモデル地区(保呂羽、南郷、三又、狙半内(さるはんない))を設定し、雪下ろし支援・雪よせ支援・買い物通院送迎支援についての実証実験を行いました(2011年10月~2013年3月)。
(注)「『高齢・過疎地域』における共助力アップ支援協議会」(構成団体:秋田県(活力ある農村集落づくり推進室)、横手市(経営企画課)、秋田県南NPOセンター、横手市社会福祉協議会、JA秋田ふるさと、横手平鹿建設業協会)として実施した。
 
急激な人口減少と高齢化、雪害への切迫感
秋田県は、この60年間一貫して人口が減っており、そのペースは年々加速しています。1世帯あたりの平均構成人数は、1950年の5.81人から2015年に2.63人となり(参考:全国平均は1950年5.07人→2015年2.38人)、75歳以上の高齢者のみの世帯率は13.2%を占めました(同:9.2%)。各世帯の人数が減って高齢化すると、買い物、通院、雪下ろし・雪よせ、農作業、お祭りなど、これまで個人の領域でできたこと・するべきとされてきたことが、当然ですができなくなってきます。自助力が低下した分、共助力を高めていかなければ、今後ますます立ち行かなくなります。
県内の各地域にとって、雪の問題は特に大きく、2010年は屋根からの転落事故が200件も発生して社会問題になり、2011年から2014年は4年連続で大雪に見舞われました。「雪害をどうにかしないと」という切迫感が、結果的に<横手モデル>と呼ばれる取り組みを前に進めるきっかけになりました。
<横手モデル>は、旧小学校区を単位とした地域共助組織が、サービスを受けたい住民から依頼を受け、事務局からお助け隊を派遣するしくみです。現在、県南部(横手市・湯沢市・美郷町・羽後町)で18組織が303名の「お助け隊員」を擁し、116集落・4092世帯をカバーしています。「デイサービスの大きな介護車両がくるので、家の前まで道幅広く除雪してほしい」「自家用車を出せるように、車庫まで道をつけて(道路から車庫までの間の除雪をして)ほしい」などのきめ細かいニーズに応えています。
 
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多様なステークホルダーと連携する
共助組織は継続できなければ意味がありません。そこで、行政からの補助金頼みではなく、複数の資金源を得られるよう、地域の多様な組織などとの協議・調整を重ねてきました。
たとえば、13年から株式会社マルシメさんは、狙半内地区からスーパーモール「ラッキー」への無料送迎バスを毎週金曜日に運行し、買い物送迎を支援してくださっています。17年3月までに運行回数は200回、利用者数は延べ3200人となりました。社会福祉法人相和会さんは、「共助作業の安全支援」として、雪よせ・雪下ろし作業にかかる傷害保険料を、13年から4地区分ご負担くださっています。また、秋田県は、従来は業者に依頼・発注していた県道脇の草刈りを、14年から共助組織11団体に委託してくださっており、地域にとっては夏場の貴重な収入源となっています。
また、17年11月からは、トヨタ自動車株式会社さんの福祉車両を使った住民バス運行の実証実験が始まっています(18年7月末まで)。共助組織と横手市が契約を結び、月・水・金の週3日、共助組織のリーダーが運転し、自宅から病院や店舗等へ送迎しています。乗車実績は17年12月には4名でしたが、翌年1月には20名、2月22名、3月34名、4月は10日現在ですでに30名となっています。
 
地域で経済を回し続けるしくみをつくる
南郷地区では、買い物支援への取り組みを始めるのに先立ち、「女性の声を聴く座談会」を開催しました。買い物の現状やニーズについて率直に教えてもらうために、「なぜ地域の商店に行かないのか」とたずねてみると、「賞味期限が書いてない」「価格が他に比べて高い」「お店に入るとじろじろ見られる」などの意見が出されました。こうした意見をお店の人に確認すると、「そんなことはない!」と言われます。実は座談会に出席されたご婦人方は、昭和の時代からその地域の商店にずっと行っておらず、単なる思い込みだったことが判明しました。ただ、その先入観を覆して日常的に買い物をしてもらうには、まず店舗の改善が必要です。そこで、経営の専門家に経営状況を診断してもらうとともに、店内のイメージ改善や売れ筋診断、不良在庫処理などを行っていきました。また、共助活動でお助け隊員に支払う賃金の一部を地域通貨で支払い、お店で使ってもらうようにしました。県外から視察を受け入れる場合も、店舗での買い物をコースに入れています。
山内南地区では、16年から「生きがい食材納入活動」を行っています。共助組織のメンバーが耕作放棄地で野菜や山菜などを栽培し、秋田県南NPOセンターのスタッフが集荷し、相和会の高齢施設や保育所に納入しています。高齢者施設の利用者は地域住民であり、地域住民がいるからこそ施設は成り立ちます。利用者の食事の材料に地元産の野菜を使っていることは、利用者やその家族に対する良いアピールにもなります。取り組みが実り、2年目にして売上目標とした100万円を達成できました。これらの野菜の販売先は、首都圏向けの頒布会や、ふるさと納税返礼品にも広がっています。
 
立ち上げをサポートし、自立をフォローする
共助組織を新たに設立する際には、まず地域の自治会の会長さんたちに挨拶し、その役員のみなさんが集まる機会にお邪魔して、市町の職員と秋田県南NPOセンターのスタッフが一緒に説明します。そこでは「地域の困りごとワークショップ」を実施して、その地域の課題を可視化・共有し、「うちの地区もやった方がいい」「今始めないと間に合わない」など、役員のみなさんに気付いてもらった上で、組織化への具体的な準備に入ります。
共助組織の基本単位となるのは自治会ですが、自治会は会費制で規約があり、意思決定は総会でと決まっています。自治会とは別の組織にする方が、機能上動きやすいので、改めて立ち上げる訳です。
まず4組織(保呂羽地区自治会、三又共助組合、狙半内共助運営体、南郷共助組合)でスタートしましたが、無理に数を増やすことはせず、まずこの4つに自立してもらうことに重点を置きました。その間、他の地域の人に「共助組織とはどんなものか」を知ってもらう時間が稼げたのもよかったと思います。
くらしのニーズに根差した、地味ですが、とても大切な活動ばかりですので、発信には力を入れています。何をやるにも秋田県南NPOセンターから、地元のマスメディアにプレスレリースを一斉送信しますし、調印式や設立式、花束贈呈など、ニュースになりやすい式典をきちんと設定します。新聞やテレビが取り上げてくれると、地域の人たちは自分たちの取り組みが社会から注目されていると感じ、これからも続けていこうというモチベーションが生まれるからです。
 
数字で現状をつかみ、未来を予測する
地域のニーズをつかむためには、前述のワークショップや座談会に加え、「中学生以上全住民アンケート」(「ソシオ・マネジメント」第3号「小規模多機能自治」P42-45)が有効です。年齢層ごとに集計すれば、年齢層別の傾向が明らかになるので、優先すべき取り組みを絞りやすく、「困った」「何とかしてもらいたい」という感覚や状況から、「地域でできることは地域で解決していこう」という意識が育っていきます。
共助社会づくりにおける中間支援組織の役割は、人口予測や全住民調査などを通して、数字で過去から現状を把握し、同時に未来を予測すること。数字は得意でない人も多いですが、判断の材料となる「共通語」であり、他や過去との比較もできます。地域を動かすためには、その判断の材料と、動き出すきっかけとなる機会や手法が重要なのです。
毎年3月には、共助組織が集まって発表会を行い、各々の取り組みを磨き合う機会を設けています。お互い知り合うと、サポートもしやすくなります。17年の第7回地域再生大賞では、横手市共助組織連合会が「北海道・東北ブロック賞」を受賞しました。
(文責:棟朝)
 
 
 
今回の「社会事業家100人インタビュー」ご参加費合計のうち3,500円は、(特)秋田県南NPOセンターへ寄付させていただきました。

【レポート】特別企画  社会事業家100人インタビュー:全国牛乳パックの再利用を考える連絡会 代表 平井成子氏

社会事業家100人インタビュー 特別企画
先輩社会事業家のビジネスモデルを学ぶ

インタビュー実施日:2018年2月16日(金)
ゲスト:全国牛乳パックの再利用を考える連絡会 代表 平井成子様

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プロフィール> 
平井 成子(ひらい せいこ)さん
全国牛乳パックの再利用を考える連絡会 代表
一般財団法人古紙再生促進センター評議員
1962年生まれ、山梨県大月市在住。
大学卒業後、地元特別支援学校の講師を経て、1988年に母親が代表をつとめる全国牛乳パックの再利用を考える連絡会(全国パック連)の活動に事務局員として参加。
1993年、代表の病死により、全国パック連の代表を引き継ぎ今に至る。
主な活動
・古紙利用率向上の可能性に関する調査検討会委員など、毎年経済産業省委託事業の委員会に唯一の市民団体の立場で委員としてかかわっている。
・2004年、原紙メーカー12社による飲料容器のための環境協調会議(於;シアトル)にて日本の牛乳パックリサイクルについてプレゼンを行う。
・中央環境審議会リサイクル部会及び産業構造審議会リサイクル小委員会合同会議にて(2004年12月開催)パック連の活動報告等の意見陳述を行う。
・牛乳紙パックで遊ぶ学ぶコンクール審査委員
・地域への牛乳パックリサイクル講習会や小学校への出前授業を展開し、100か所以上に至る。 等
 
<今回のインタビューのポイント>
「洗って、切り開いて、乾かして、回収に出す」。今では自治体やスーパー等での回収が当たり前になっている牛乳パック。しかし30年前、牛乳パックは全て捨てられていた。そのリサイクルをはじめたのは、企業や行政ではない。「上質の紙を使っているのに捨てるなんてもったいない!モノを大切にする姿を子どもたちに見せていきたい」と、回収ルートも持たぬまま、一人の主婦が仲間に呼びかけて始めた運動だ。「牛乳パックのリサイクルを通じて、家庭の中でのしつけ、そして自らの生き方、暮らし方を問い直して欲しい」という一心でリサイクルルートを開拓し、活動を全国に広げた。やがてその運動は、製紙メーカー、回収業者、市民団体、自治体、そして国を巻き込み、社会全体で取り組むしくみへと結び付いた。
「運動をしくみにして人の行動を変える」。その先駆けともいえる牛乳パックのリサイクル運動のこれまでの経緯、これからの課題を読み解くことで、「運動をしくみにする」その言葉の背景にある一つ一つの行動を学んで欲しい。
 
牛乳パックは社会を見るレンズ
運動の始まりは、1984年に母である平井初美が山梨県大月市で始めていた子育てグループ「たんぽぽ」の呼びかけでした。モノが豊かになり、その尊さを感じられなくなってしまっている子どもたちに、モノを大切にする親の姿を見せていきたい。そのためにまず親が行動しよう。そんな活動の中で、牛乳パックには最高級のバージンパルプが使われていること、それが全て使い捨てされていることを知り、「牛乳パックを捨てないで!使い捨て生活を見直して子どもたちにモノの大切さを教えよう」と大月市内で自主的な回収を呼びかけたのが発端です。
牛乳パックを利用した紙すきハガキづくりのワークショップなどを実施して、使用済みの牛乳パックの回収を呼びかけたところ、多くの人の共感を呼び、短期間で大量の牛乳パックが回収されました。しかし当時は、牛乳パックにラミネートされているポリエチレンを分離処理する設備を持つ製紙メーカーはほとんどなく、牛乳パックはリサイクルできない「禁忌品」として指定されていました。運動を始めた当初、そのことを母は知らなかったのです。集まった牛乳パックをもう一度捨てるようなことがあってはならない。その社会的責任を感じて、母は必死に回収した牛乳パックの受け入れ先を探しました。
それから4カ月間、集めた牛乳パックを引き取ってくれる業者・メーカーを探すために、母は再生紙メーカーや回収業者に電話をかけまくり、東奔西走しました。そしてついに見つけたのが、富士市の丸富製紙株式会社(以下、丸富製紙)さんでした。丸富製紙では、産業古紙である未使用の牛乳パック(製造工程で出る裁ち落とし、プリントミスなどのパック)を再生しており、分離されたポリエチレンもガス化して重油代わりに再利用していたのです。母は同社の社長さんに直談判して、使用済みの牛乳パックの回収受け入れを依頼しました。しかし、使用済みの牛乳パックを受け入れるためには、カビや匂い、湿気がないことが条件でした。飲み終えた後に「洗って切り開き、乾かす」手間が必要となるのです。「そういう手間暇をそちらでかけられますか?」と丸富製紙の社長にたずねられた母は、「責任をもって回収ルールとして徹底します」と答えました。
それまで捨てていた牛乳パックを、「洗って切り開き、乾かしてから回収に出す」なんて、とても面倒でそこまでしてリサイクルに出してくれる人はほとんどいないんじゃないか。紙の全体の生産量からするとわずか1%にすぎない(当時)牛乳パックに、そこまでする意義があるのか。たくさんの懸念や反対の中で、母は信念を曲げませんでした。
「手間暇をかけることで、ゴミではなく資源として生まれ変わる。その手間暇を通じて、確実に人の意識は変化していく。そういう姿を家庭の中で見せることで、子どもたちにも、物を大切にする心を持って欲しい」。
リサイクルのルートを開拓するためには、安定的に大量の回収が必要ですが、牛乳パックの回収量を到達点と考えるのではなく、自らの生き方や暮らし方を問う、そのためのレンズとして牛乳パックの回収を呼びかけよう。その信念の下で、運動の理念に賛同した再生紙メーカーの丸富製紙と、丸富製紙の取引先であった山田洋治商店(回収業者の直納問屋)、そして小平市の回収業者のタイアップによって、牛乳パックのリサイクルルートが開かれました。
 
牛乳パックを媒介にして他分野の団体が集う
その後、たんぽぽと山田洋治商店による地道な普及啓発と、スーパー等への回収協力依頼を通じて回収方法を確立したことで、この牛乳パックのリサイクル運動は日々の生活の中にある身近な素材として、リサイクルの象徴的なものとなり、回収量も徐々に増加しました。回収に協力してくれる団体や店舗、学校、自治体も増え、大月市だけでなく、全国各地で自分たちも牛乳パックの回収、再利用運動を始めようという団体がでてきました。
そこで1985年に、全国各地で牛乳パックの回収、再利用運動に取り組んでいた11団体で「全国牛乳パックの再利用を考える連絡会」(以下パック連)を結成。食育やせっけん運動、生活協同組合、無農薬野菜の流通、福祉活動など、さまざまな分野で活動している団体が集まり、牛乳パックの再利用について意見交換しながら、それぞれの活動の幅を広げていく新しいネットワークができました。牛乳パックを通じて、環境問題はもちろんのこと、食、農業、教育、福祉などさまざまな問題を含めた、ライフスタイルを問い直すための運動を担う組織が生まれ、そのレンズの役割を、牛乳パックが担うことになったのです。
1987年には「第1回牛乳パックの再利用を考える全国大会」を開催し、その後、九州、関西、首都圏、東北などで地域ごとのネットワークが相次いで発足しました。1989年に牛乳パック再利用運動と手すきハガキ作りについてのリーフレットを作成し、「木枠さえあれば自分で手すきハガキがつくれます」と紹介すると、それがメディアで紹介され、木枠の注文が殺到。パック連の事務局を担っていた、たんぽぽの事務所である我が家の電話は鳴りっぱなしでした。
1990年には環境庁(当時)が主唱する環境週間イベントにおいて「第1回手すきはがきコンテスト」を開催し、牛乳パックのリサイクルは多くの人に認知されるようになり、海外からも視察が訪れるなど、運動の広がりは国内だけでなく海外でも注目されました。
それまでの市民運動は、行政や企業の行動の問題点を指摘し批判することに力を注ぐケースが多かったのに対して、この牛乳パック再利用運動は、敵をつくらない運動です。行政からの後援も得られるようになり、環境問題に取り組む市民団体として行政との新しい関係を築くきっかけともなりました。
 
集めるだけじゃない、「集めて使うリサイクル」へ
こうして運動が広がり、牛乳パックの回収量も増えてくると、それをどう使うか、が次の問題になりました。1987年には、丸富製紙だけでなく、牛乳パックを原料として回収受け入れに協力してくれる製紙メーカーが複数になりましたが、それでも使い切れない量のパックが集まってきました。当時、回収された牛乳パックのほとんどはトイレットペーパーやティッシュペーパーとして再生されていました。もともと、環境に配慮して芯のないトイレットペーパーを製品化していた製紙メーカーでつくるネットワーク「コアレス会」に所属する製紙メーカーが主な回収受け入れ先となってリサイクルを担ってくださっていたのですが、再生品である製品が売れなければ回収されたパックが活用されません。そこで、まずは製紙メーカーと協同でアンケート調査を実施。「自分が回収に協力した牛乳パックからできた再生品を買っているか」を調査したところ、「牛乳パックの回収に協力はするが、トイレットペーパーやティッシュぺーパーなどを買う時にはそれらの再生品を選んでいるわけではない(市民)」、「回収に協力しているが、再生品の販売比率は低い(量販店)」、といった問題がわかりました。
そこで1993年からは、「集めるだけではダメ、再生紙を使ってこそリサイクルは完結する」と訴え、「集めて使うリサイクル」を提唱し始めました。さらに、「牛乳パック再利用マーク」(以下パックマーク)を決めて、回収された牛乳パックを原料として作られた再生品にマークをつけて販売促進をする活動を開始。全国各地で「牛乳パック再利用マーク全国キャラバン」を展開しました。リサイクルの意義を伝えて回収量を増やすことに力を注ぐだけではなく、リサイクルの出口となる再生紙普及活動にも力を注がなければならない、という姿勢への転換をしたのがこの頃です。
そこには、再生紙の市場の変化と、再生紙メーカーが生き残りをかけた戦略としてこのキャンペーンに協賛していただいた、という背景がありました。運動を始めた当初の牛乳パックの末端の引き取り価格は1キロ(牛乳パック30枚相当)5円。回収業者の採算を考えて他の古紙類と抱き合わせて大量回収すること、継続的、安定的な回収を図ることなどを約束して、再生紙メーカー、回収業者、市民グループの三者連携で始められた運動でしたが、回収業者や再生紙メーカーからすれば、手間のわりに利益の少ない仕事。活動の趣旨に賛同してくださる志のある企業だからこそ続けられる運動でした。しかし1990年代に入ると、パルプの国際価格が低下したことで、再生紙メーカーはパルプメーカーに押されて業績を落とし、中小規模の再生紙メーカーの中には廃業に追い込まれる所も出てきました。
厳しい状況の中で、コアレス会に参画されている再生紙メーカーは、この運動に賛同してくだり、使用済み牛乳パックを原料として使っていること、「みなさんの回収した牛乳パックを使って製品をつくっています」というところに、生き残りをかけてくださったのです。「営業マンを一人出すくらいの気持ちで、あなたたちの活動を応援しましょう」と、毎月25万円ずつ協賛金を出してくださり、その資金を元にして全国445カ所での「牛乳パック再利用マーク全国キャラバン」が実現しました。
ちょうど、1992年にリオ・デ・ジャネイロで開催された「環境と開発に関する国際連合会議(通称:国連地球サミット)」の影響もあり、「環境」という視点がビジネスの新しい切り口になる時代でもありました。その時代背景の中で、「自分たちで洗って切り開いて乾かして回収した牛乳パックをリサイクルしてできた商品」という訴えは消費者にとってもわかりやすく、当時パック連に加入していた生活協同組合や、消費者団体、無農薬栽培グループ、婦人団体など約1200団体に使用を呼びかけるキャンペーンを行い、「再生品を使ってこそのリサイクル」、「このマークで選ぼう!」という呼びかけを大々的に行いました。
この全国キャラバンを実施した1993年は、私たちにとって、大きな柱を失った年でもありました。当時のパック連代表であり、この運動の創始者である母が1月に他界したのです。その1年ほど前から、以前摘出手術を受けた腫瘍が小腸間膜に転移していることが見つかり、闘病しながら講演会やシンポジウムの檀上に立っていました。「集めて使うリサイクル」へ、その運動の転換の真っただ中での別れでした。母の後任として私がパック連とたんぽぽの代表になったのはその2ヵ月後のことです。「母が実践してきた歴史を語れるのは私しかいない」。そんな気持ちで、1988年からたんぽぽの事務局の手伝いをしていましたが、正直、パック連の代表になるのには戸惑いがありました。「私は母のようにはできない」という気持ちが根本にあるからです。しかし「前代表のやってきたことを自然に受け継げるし一番理解している」、という周りの説得と、「母と同じことはしなくていい。自分なりに考えたことをやっていけばいい」と納得できたことで、覚悟を決めることができました。
同年5月30日(ゴミゼロの日)には、関西の市民グループとスーパーが一緒になって再生紙の利用拡大キャンペーンを一斉に展開。ダイエー、ジャスコ(当時)などスーパー7社が大阪、兵庫の9店舗でトイレットペーパーやティッシュペーパーなどの再生紙製品を集中的に展示販売し、市民グループが店頭に立ってリサイクルを示すパネルの説明やチラシの配布、再生紙に関するクイズの出題などで利用を呼びかけました。このキャンペーンはチェーンストア協会、再生紙メーカー、自治体、市民グループの協働取組みとして、その後も阪神、大阪、滋賀に拡大。翌年にも「再生紙普及キャンペーン・パックマークキャラバン」として福岡、徳島、関西、名古屋、首都圏など全国に広がりました。
 
「容器包装リサイクル法」による法制化
1995年になると、「容器包装に係る分別収集及び再商品化の促進等に関する法律(容器包装リサイクル法)」(1995年6月制定、1997年4月から本格施行)が成立し、包装容器類に対して、消費者は分別排出すること、市町村は分別収集すること、そして事業者は市町村が分別収集した容器包装廃棄物をリサイクルすること(そのコスト負担を一部義務付ける)、という応分の負担のしくみがつくられました。
この法案制定にパック連も積極的に関わり、各地で市民レベルでの学習会を繰り返し開催、厚生労働省をはじめとする省庁の担当者が説明に訪れ、関係企業も多く参加しました。法律の制定の動向をただ見守るのではなく、消費者、市町村、事業者のそれぞれの立場から何ができるのか、牛乳パックの位置づけはどうなるのか、積極的に議論しました。その結果、当初は量が少なくてビンや缶などと同列に置かれていなかった紙パックのリサイクルについても、市民運動を主体として多くの人が関わるリサイクル運動であることが鑑みられ、ビンや缶と同じように企業責任が一部かけられて回収されることになったのです。法制化の段階ですでに回収業者による有償での回収が行われ、上物古紙として再生品がつくられていることなどから、牛乳パックは他の紙製容器包装とは分けて議論され、自治体による分別回収の対象とはなったものの、基本的にはそれまでのリサイクルルートがベースとなって継続されることになりました。ただし、アルミ付きの飲料用紙容器については事業者責任においてリサイクルの道筋をつくることが求められることになりました。リサイクルの推進、それを本来担うべき事業者に責任を認め、消費者にも広く分別を求めたという意味で、法制化は影響も意義も大きかったと思います。
こうしてリサイクルが行政システムや企業活動の中に位置づけられるようになった、ということは、これまで市民がボランティアをしながら地道に取り組んできたことが社会的に位置づけられたという成果です。他方で、「市民の責任を伝えて市民の五感を鋭くする」、洗って切り開いて乾かす、という回収を徹底することや、自治体が定めた分別回収のルールを守ること、事業者がリサイクルしやすい製品づくりをすることに目を光らせ、その意味を事業者に積極的に働きかけていくこと、さらに再生品を日常的に利用することについて啓発していく必要があります。私たちの主な役割が、リサイクルルートを開拓してそれを回すことそのものから、その意義の啓発へ、市民の教育へと、運動の根本に立ち返ることになりました。
 
業界団体との連携の模索
社会的なしくみづくりが進むことで、パック連は、容器包装リサイクル法制定に向けての勉強会や情報交換などを通じて、関係企業や事業者団体との関係も深まり、紙容器メーカーや乳業メーカーで構成される業界団体との協働事業にも取り組むようになりました。
毎年実施していた「牛乳パックの再利用を考える全国大会」や独自調査・研究会などと並行して、事業者団体からの協賛を得て、牛乳パックリサイクルの普及啓発活動や再生紙普及活動などを実施するようになり、この頃からパック連の経済基盤は安定するようになりました。
法律の本格施行がはじまり、再生品が多く世に出るようになったこともあり、パックマークの認知度は向上。1998年からは中学校の社会科教科書や小中学校の環境副読本にも掲載されるようになり、パックマークはエコマークなどとも並んで、社会的な認知を受けたエコ・ラベルの一つとして定着するようになりました。パックマークはパック連が事務局を務める「牛乳パック再利用マーク普及促進協議会」によって会員登録を受けた企業が使用でき、マーク使用のための登録料もご負担いただいています。2006年にはパックマーク登録企業は22社となり、トイレットペーパーやティッシュペーパーはもちろんのこと、ノートや事務用品、名刺、ポストカード、カレンダーや各種印刷用紙など、多くの再生品が登場しました。
また、1992年に飲料用紙容器メーカー、乳業メーカーが中心となってつくられた「全国牛乳容器環境協議会」とは、牛乳パックのリサイクル促進のための各種啓発事業を協働で実施しています。
一方で、それまでは、運動の趣旨に賛同してくださる志ある企業とだけのお付き合いだったのが、この頃から、大手メーカーを含めた、多様な企業とのやりとりが増えていきました。業界団体のひもつきになってしまうと、「運動」の側面が薄れていく。やれることが限られている業界団体の予算の範囲内で啓発事業のメニューを増やしていくことにも限界を感じていました。協賛金という会計の不明瞭さを問題視する人もいたため、一度協賛を断ろう、自分たちだけでやってみよう、と2000年に業界団体からの協賛金を断って独自の事業を展開することにしました。
そこで、(独)環境再生保全機構の地球環境基金の助成金を得て、周辺諸国の飲料用紙容器リサイクル活動の実態調査を実施。調査を通じて韓国、フィリピン、タイの現地NGOと牛乳パックを切り口としたネットワークをつくり、それがきっかけとなって、フィリピンの紙パックリサイクル活動を支援する事業につながりました。
業界団体にとっては、私たちとの関係が絶たれたことで、やるべき普及啓発事業がやれなくなりました。牛乳パックのリサイクルについて専門性がある人材もなく、地域でリサイクルを担っている市民団体とのコネクションもありません。法制化によって事業者のコスト負担が一部義務付けられたとはいえ、使用済み牛乳パックの回収は、家庭への啓発活動から拠点回収、回収業者のルートに乗せるまで地域のボランティアの存在に頼っている現状です。市民団体との連携なくしてはこのリサイクルは実現しないのです。そこで2001年以降は、パック連で普及啓発事業の企画を立て提案・実施し、その対価について業界団体が支払いをする、というしくみに変えて再び業界団体と連携していくことになりました。パック連を「ひもつき」にはしない。でも業界団体とも連携して、活動を広げていく。経済的な基盤としては業界団体からの資金の比率は高いですが、今でも、「ケンカしてでも曲げないことは曲げない」という姿勢は貫こう、と思っています。
 
これからは、「地域で集めて地域で使う」リサイクルへ
パック連は発足から今年で34年になります。この間ずっと使用済み牛乳パックの回収協力をよびかけてきましたが、牛乳パックの回収率は現在44.3%で、その比率はこの数年なかなか上がっていません。その理由の一つは、雑古紙回収として他の紙類と一緒の回収に出されてしまうからです。雑古紙は回収後に焼却される懸念もあり、上物古紙としての牛乳パックのリサイクルとは別のルートに乗ってしまいます。さらに、輸出されて近隣諸国で資源として使われるケースもあり、国内で純粋な上物古紙を確保しにくくなっています。
このため今後は、より「地域で集めて地域で使う」リサイクルを唱えていく必要があると考えています。もともとこのリサイクルは、地域で操業する再生紙メーカーと、地域で古紙回収を行う回収業者、地域の市民ボランティアとのタイアップではじめた運動です。「自分が回収に協力した牛乳パックが、あの会社で再生紙になって、この商品になった。それをこのお店で買って使うんだ」という顔の見える信頼関係の中で、地域で回収されたパックを地域で使うリサイクルの輪をたくさんつくって広げていくことがますます必要です。パルプメーカーに押され気味の地域の再生紙メーカーも、大手パルプメーカーと比べて価格で負けたとしても、品質と信頼では負けない、そういうところを応援していきたい。回収を呼びかけている側の自治体や企業、業界団体自身も、再生紙をもっと利用して欲しい。その働きかけをしていきます。
そこで2012年から、量販店での「紙パックリサイクル促進キャンペーン」を実施しています。牛乳パックの形をした特徴ある回収ボックスを設置して、「牛乳パックを6枚持ってきてくれたらティッシュボックス1箱と交換します」と呼びかけたり、手すきはがき作りを行ったり、牛乳を飲んで手開き体験などしながら、紙パックリサイクルへの理解を促しています。また、「パックマークのついた商品は店内のここで売っています!」と紹介。それまで業界団体が中心となっていた回収の普及啓発事業を、量販店・スーパーの店舗にとってもお客さんを呼び寄せ、売り上げに貢献するようなしくみになるよう企画しました。こうした活動はお客さんも量販店も喜ぶ、意味ある活動です。業界団体からの支援を活用することで、開催する側は場所代のみで実施できます。リサイクルの意義を伝えながらデモンストレーションするノウハウは、これまでのパック連で培ってきたもの。パック連でなければできない事業です。
小学校などへの出前授業も充実し、パックを利用した紙すきの体験を学校で提供する出前授業には、業界団体のOBがサポーターとして参加してくださっています。
さらに、牛乳パックを再生した手すきはがきの製作や牛乳パック回収作業は、全国各地の福祉作業所の重要な仕事の一つとなっており、パック連ではそうした福祉作業所の自主製品の販売の支援も行っています。
リサイクルを促す主体のメインが自治体や事業者になったとしても、パック連の軸はエンドユーザーである市民・消費者への普及啓発です。自分が飲んだ牛乳のパックを、洗って切り開いて乾かして回収に出す。その手間を通じてゴミを資源に変えること、モノを大切にする気持ち、そういう意識を消費者や子どもたちにもってもらうこと。その活動の根本は変わりません。これからも、自分たちの活動に責任を持ちながら、「集めて使う」リサイクルを促し、牛乳パックを通じて広く社会を見る、そういう視点をこれからの世代に伝えていきたいと思っています。

(文責:星野)

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店頭キャンペーン3店頭キャンペーンの様子

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牛乳パックの形をした回収ボックスは全国2万カ所以上に設置

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